新東名と新名神の新規開通区間

先日京都に行った時にタイトルに有る区間を通ったのでその時に感じたことを書いておく

新東名の新規開通区間

まだ知られていないのかほとんど車が通っていない。新東名なだけあって走りやすい。ジャンクションにある照明が道路の横にあるタイプでちょうど目の辺りにきて眩しいのだけが気になる。

上りは海老名からの渋滞に巻き込まれたがほとんどの人が伊勢原ジャンクションから新東名に向かわないので新東名はとても快適であった。

東名が渋滞していると海老名ジャンクションも渋滞するので圏央道を八王子方面に行くときは右側車線を走りましょう。

新名神の新規開通区間

走りやすい。

ただ伊勢湾岸が6車線なので6車線で作ってほしかった

髪の毛が伸びた

髪を伸ばし始めて約1年ほど経つ。

1年間全く切っていないというわけではなく変にならないように3, 4ヶ月に一回は切っているが自分の人生の中で一番髪が長いのは確実だ。

髪が短いままでは気づかなかったこともいろいろあったのでそれらをまとめていく

髪を結ぶと涼しい

今の髪の長さはだいたい後ろ髪全体が肩につくくらいの長さだが首筋が結構暑い。

同じような髪の長さの人が結んでいるのを見てそれ意味あるの―?って思っていたがとても意味があった。結ぶと涼しい。

これと関連して真夏でも長い髪を結んだりせずにいる人は暑さに耐える能力強いんだな―って思うようになった。

ハーフアップは楽

それ意味あるの―?と思っていたハーフアップ、ちょっと下を向く作業なんかをする時に髪の毛が落ちてこなくて楽だとわかった。

今の髪の長さだと髪の毛が落ちるのを防ぐだけなら全部結ぶよりハーフアップのほうが楽ちんだったりする。

きちんとケアすると割とすぐ答えてくれる

皮膚は細胞のターンオーバーの関係でケアしても効果があらわれるまで2, 3ヶ月はかかるけど髪の毛は死んだ細胞なのできちんとケアすると2, 3日で効果が現れてくる。

今までオーバースペック感のあったイイスタンダードのシャンプー, コンディショナー, ヘアセラムとヘアオイルが実力を発揮してくれてる感じがある。

ツヤツヤの髪の毛は触ると気持ちいい

きちんとケアをしてブラッシングをした髪の毛は触っているととても気持ちがいい。

手持ち無沙汰になった時についつい触ってしまっていて合コンで暇な子が髪の毛いじったりモデルがとりあえず髪の毛触ったポーズをする理由がわかった気がする。

思いつくまま書いたが結んだら涼しい, じゃまにならないはウィッグで再現できるがケア関連のことは自分の髪の毛でないとわからないことだったと思う。

とりあえずヘアドネーションできるくらいまでは伸ばしたい。

イイスタンダード ヘアセラム 120g

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イイスタンダード ヘアオイル 50ml

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運転ではなくドライブが下手だ

車の運転が好きだ。しかしドライブは下手だと思う。

ドライブと運転することは違うものだと考えていて、運転は車の操作方法について、ドライブは運転をして目的地に行くことだと考えている。

こう書くと目的地にたどり着けない方向音痴なのかと思われるかもしれないがそんなことはないと思う。目的地にたどり着けることは問題ない。 しかし、目的地に到着するまでの行程が下手なのだ。

具体的に言うと休憩のタイミングがわからなかったり、目的地までの間に別の目的地を挟んだりすることができない。

休憩は2時間毎にとるのがいいとJAFに書かれていたので実行しようとしてもなかなかできない。また帰ってきてからあそこに寄っておけばよかったなど思い出すことが多いので別のところによることもなかなかできない。

休憩については時計を見るのではなく、タイマーなどをセットしたほうがいいかもしれない。別のところによることについては予めスケジュールを組んでおくといいのかもしれない。

それと、運転は少なくとも下手ではないと私自身は思っているがもしかしたら下手なのかもしれないけどそういったものをうまく数値化できないのももどかしいのでマツダのi-DM的なものが車に外付けできたらいいと思う。

犬が家からいなくなった。

先日飼っていた犬が亡くなった。今まで3匹の犬を飼っており累計で25年近く犬と一緒に暮らしていたらしい。

最後に飼っていた犬がいなくなると精神的に寂しく、また小型犬といはいえ物理的にも寂しい。 食事で居間に行った時にテーブルの下にいないとはわかっているのについみてしまう。

私たちがいい飼い主だったとは言わないが、三匹とも寝たきりなどにならずに亡くなってしまったのでそこのところは良かったと思う。

一匹目はなんだかよくわからないまま亡くなってしまい、なんだかよくわからないまま骨になってしまったのであまり悲しみに暮れるということがなかった。また私の年齢が若かったからかもしれない。

二匹目、三匹目は2017年、2018年と立て続けに亡くなった。

二匹目の時ははこの歳になって声を出して泣くことがあるのだと自分でも驚くくらい泣いてしまった。

またペットロス的な症状に陥りそうになりそういった関連の本を読もうと思ったが内容があまりにスピリチュアルにまみれているので幸いにもお世話になることがなかった。

三匹目はつい先日亡くなった。

私の中では二匹目ほど悲しみに暮れることはないだろうと思っていたがそんなことはなく駅のベンチでとても泣いていた。

この文章を書いている間も涙が出てきている。

思い出すと悲しいから思い出さないようにしようと思っていたが気持ちの整理をつけるために書いている。

一匹目と二、三匹目で私の中で一番変わったことがある。それは写真を撮るようになり犬を被写体としていたことだ。

このことが私の中に拭い去ることができない嫌悪感を生み出してしまった。その理由は2つある

1つ目は亡くなったのが悲しいのではなく被写体が一つ減ったから悲しんでいるのではないかということ。 2つ目は亡くなった、ということすらも記録しておきたいと思ったことだ。

1つ目についてはそのままなので2つ目について詳しく書く。

人が死んでも犬が死んでも生活の中で普段起きないことがたくさん起きる。葬儀会社に連絡したり遺体を火葬場に送るのを見送ったり。

そいういった出来事を第三者の視点で記録したいと思ってしまった。結局はしなかったが大事なものの死ですら創作に使ってしまおうとしているのかと考え、このようなことが思い浮かぶなら写真なんて撮ってるんじゃなかったとも思っていた。実際二匹目が亡くなってからしばらくは撮影をほとんどしなかった。

三匹目が亡くなったあと、母親に一匹目と違って二匹目と三匹目は写真がいっぱいあってよかったというようなことを言われた。こちらは辛く当たってしまったのになんでそんなこと言ってくれるんだよと思った。

だからこれから、家族を撮りたい。モデルになってっていうのも恥ずかしいし相手も恥ずかしいかもしれないけど。元気な時の写真を残しておけば病気で寝たきりになったりしても元気な姿を思い出せると思うから。

最後に、ゴン吉、環、ちゃぱぁ、ありがとう。

外国人に中一日で道を聞かれた

10月から生活が変わり平日に新宿に行くようになった。

基本的にいわゆる都会での活動は池袋がメインだったので新宿はとても刺激的に思える。

救急車はパトカーの出動件数が池袋とは段違いだし警察官に短時間のうちに二回接触したら職質を受けたりもした。

警察官は人の話を聞かないか覚えていられないようで同じようなことを何回も聞かれたりもしたがおそらく不審者をあぶり出すテクニックのひとつなのだろう。

そして何より外国人が多い。 池袋も多かったが新宿と比べたら鳥取県の人口と新宿駅の利用者数ほどの差がある。 その結果かタイトルに有る通り中一日で道を聞かれた。

最初に聞かれたのは10月29日だ。

このときは中国人の老夫婦でスマホを使った翻訳を見せてきた。 この夫婦はおそらく中国語以外がわからないようで go straight や right といった簡単な英語を話しても反応が薄かった。もちろん日本語も。

英語については発音が悪かった可能性もあるが。

なんとか身振り手振りや私のスマホで地図を表示させて納得してもらったが目的地がわりと距離があるところだったので道中他の人に聞いただろうと思う。

ただ別れたあとで紙とペンを持っているんだから地図書いてあげればよかったじゃん!と気づいてしまった。 いきなりこちらが使える言葉が通じない相手に教えるという状態になって心拍数が上がった結果自分の持ち物も思い出せずいろいろ大変なことになってしまった。

出川哲朗みたいにうまくはいかないね。

次は10月31日だ。

このときは日本語で話しかけられてこちらのいっていることも理解していたようなのでもしかしたら外国の方ではなかったのかもしれない。 ただ発音がネイティブな日本人ではなかったのでやっぱり外国の方かもしれない。

このときは西武新宿駅がどこかと聞かれ、距離的にそこまで遠くなくルートもシンプルなのでうまく案内できたと思う。 ただ西武新宿駅は建物が微妙にわかりにくいと思っていたのでわかりやすいと特徴として色を出し茶色いビルですと言ったのだがこのときも別れたあとに 外国の方だったら色の認識が違うのでは、そもそも茶色とかいう微妙にマイナーな単語つかうべきではなかったのでは、と再び反省していた。

私に声をかけてきた方々はなんか暇そうで付き合ってくれそうで道やランドマークに詳しそうと見た目や行動から感じて声をかけてきたと思うので上手に道案内できるようになりたい。

楽しいことが思い出せない

去年長年飼っていた犬が死んだ。

12年近く飼っていてほとんどの世話を母がやっていたけど散歩だってしたし写真も撮った、一緒に海にも行った。こちらも愛情を持っていたし相手も好いていてくれたと思う。

亡くなった当日はもう動いている姿を見れないんだと思い哭いた。

これを書いている時(正確に言うと前日のエントリを書いている時)にふと思い出したが思い出した姿が亡くなり火葬する前の生命活動が停止し腐敗が始まり耐えられない臭いを放つ姿だった。そしてその時に感じたあんなに愛情を持っていたのに腐敗した程度で拒否感を持つのかという自分の中のある種の絶望だった。

そしてこれは薄々感じていたのだが自分にとって不利益がない限りどんな悲劇でも悲しくないのだと確信した。

だから感情がイワシの大群のように同じ方向へ向かわないといけない今を生きるのがしんどい

黙祷しているふりをしている

黙祷が苦手だ。苦手な理由の第一として何をしたらいいのかわからないというのがある。

似たような好意として神社や寺での祈りがあったがこちらは以前にネットで見た神様への願い事ではなく所信表明をすればいいのだと知り何をしたりいいのかわからないということが無くなったのでだいぶ楽になった。

しかし黙祷は何をしたらいいのかが本当にわからない。祈りというのが死者との対話になるらしいが黙祷をするような災害や戦災で亡くなったものが知っている限りいないので対話のしようがない。仮に個でなく全体に対して対話するとなると災害がなくなるように、戦災が起きないようにと個人の力量を超えてしまうのでそんなこと思考の中でも相手に対して言うことはできない。

よって頭の中で何をしたらいいのかわからないので不安になってそわそわしてしまう。これが第二の理由だ。 ただ黙祷の場合大体の場で1分間というゴールが設定されているのでなんとか耐えられるが参拝の祈りはゴールが明確じゃないので辛い。周りに合わせようにも目をつぶっているので気配で察知するしかないしだいたい失敗する。

なので宗教施設では祈りの時に頭の中で考える言葉などをバリアフリーの一環として整備しておいてほしい。