犬が家からいなくなった。
先日飼っていた犬が亡くなった。今まで3匹の犬を飼っており累計で25年近く犬と一緒に暮らしていたらしい。
最後に飼っていた犬がいなくなると精神的に寂しく、また小型犬といはいえ物理的にも寂しい。 食事で居間に行った時にテーブルの下にいないとはわかっているのについみてしまう。
私たちがいい飼い主だったとは言わないが、三匹とも寝たきりなどにならずに亡くなってしまったのでそこのところは良かったと思う。
一匹目はなんだかよくわからないまま亡くなってしまい、なんだかよくわからないまま骨になってしまったのであまり悲しみに暮れるということがなかった。また私の年齢が若かったからかもしれない。
二匹目、三匹目は2017年、2018年と立て続けに亡くなった。
二匹目の時ははこの歳になって声を出して泣くことがあるのだと自分でも驚くくらい泣いてしまった。
またペットロス的な症状に陥りそうになりそういった関連の本を読もうと思ったが内容があまりにスピリチュアルにまみれているので幸いにもお世話になることがなかった。
三匹目はつい先日亡くなった。
私の中では二匹目ほど悲しみに暮れることはないだろうと思っていたがそんなことはなく駅のベンチでとても泣いていた。
この文章を書いている間も涙が出てきている。
思い出すと悲しいから思い出さないようにしようと思っていたが気持ちの整理をつけるために書いている。
一匹目と二、三匹目で私の中で一番変わったことがある。それは写真を撮るようになり犬を被写体としていたことだ。
このことが私の中に拭い去ることができない嫌悪感を生み出してしまった。その理由は2つある
1つ目は亡くなったのが悲しいのではなく被写体が一つ減ったから悲しんでいるのではないかということ。 2つ目は亡くなった、ということすらも記録しておきたいと思ったことだ。
1つ目についてはそのままなので2つ目について詳しく書く。
人が死んでも犬が死んでも生活の中で普段起きないことがたくさん起きる。葬儀会社に連絡したり遺体を火葬場に送るのを見送ったり。
そいういった出来事を第三者の視点で記録したいと思ってしまった。結局はしなかったが大事なものの死ですら創作に使ってしまおうとしているのかと考え、このようなことが思い浮かぶなら写真なんて撮ってるんじゃなかったとも思っていた。実際二匹目が亡くなってからしばらくは撮影をほとんどしなかった。
三匹目が亡くなったあと、母親に一匹目と違って二匹目と三匹目は写真がいっぱいあってよかったというようなことを言われた。こちらは辛く当たってしまったのになんでそんなこと言ってくれるんだよと思った。
だからこれから、家族を撮りたい。モデルになってっていうのも恥ずかしいし相手も恥ずかしいかもしれないけど。元気な時の写真を残しておけば病気で寝たきりになったりしても元気な姿を思い出せると思うから。
最後に、ゴン吉、環、ちゃぱぁ、ありがとう。